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挟み撃ち

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“アミダクジ式”長編小説の原点

あの外套はいったいどこに消え失せたのだろう? お茶の水橋に佇み、主人公の〈わたし〉は、二十年前、東京へ出て来た際に着ていた、旧陸軍の外套のことを思い出す。その外套を探し求め、大学浪人の時期に過ごした蕨を訪ね、さらに、敗戦を迎えた生まれ故郷の北朝鮮・永興、中学・高校を過ごした筑前などの記憶を彷徨い、脱線を繰り返す。1973年に書き下ろしで発表された、“アミダクジ式”長編小説の原点。

初出:一九七三年、書き下ろし、河出書房新社刊

底本:講談社文芸文庫『挾み撃ち』

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早起き鳥の巣立ちまで(2013年11月06日)

「挟み撃ち」の電子書籍がリリースされて、1週間が過ぎました。

 応援ありがとうございます。

 おかげさまで取材の依頼などもあり、ツイッターで嬉しいコメントをいただいたり、早起き鳥の目覚めはなかなか快調です。

 アーリーバード・ブックスは、3人で切り盛りしている、小さなレーベルです。もちろんそれぞれが他にも仕事をしています。

 正直、不器用な私は、一度に色々なことを考えたり、動いたりすることができませんので、「電子書籍を作ろう」ということになったは良いが、果たしてやりとげられるのか、すごく不安でした。

 それは、私以外のスタッフも多少の差はあれ、同様だったのではないかと思います。

 しかし、「3人寄れば文殊の智恵」とはまさに、で、頭をつき合わせているうちに、卵はあたためられ、すくすくと育ち、ある朝早く、元気に飛び立ったのでした(キンドルからの出版開始のお知らせは、本当に早朝だったのです)。

 今回の電子書籍の出版への原動力となったのは、やはり、昨年夏、父の命日に発行された新刊『この人を見よ』だったのではないかと思います。本人が他界して10年以上がたっており、多くのファンがいるとは言っても流行作家ではなく、昨今の出版界の状況からして再録はともかく、新刊はありえないでしょう、と、家族は皆思っていました。実際、全集や選集の企画なども生まれては消え、の繰り返しでした。

 それがある日、幻戯書房という出版社の編集者から手紙が届き、そこからあっという間、数ヶ月後にはあの分厚い本ができあがったのです。

 名だたる書店の平棚に積まれた『この人を見よ』を目にしたとき、涙がじわっときたのを憶えています。

 その幻戯書房で担当編集だった方に紹介されたのが、今回電子書籍を作るにあたり、全てを取り仕切ってくれた塚田さん。レーベルのスタッフです。

 なんでも幻戯書房の編集者と塚田さんは飲み屋で知り合ったらしく、もともと『この人を見よ』を自分で編集、発行したいという思いを抱いていた塚田さんは幻戯書房に先を越され、飲み屋で初対面の時は「ぬおー、お前か」といった感じだったらしいですが(かなり想像入ってます)、2人は意気投合し、塚田さんは電子書籍という新しい企画を携え、私に声をかけてくれた、というわけなのです。

 未完の小説が時を経て再び姿を現し、それを実現したエネルギーが源泉となって新たな流れを押し出していく。川が大好きな私は、そんなイメージを頭に描いては、幸福感に包まれます。(ちなみに特に好きな川は江戸川です。母校の近所にあったので)

 それは、父・後藤明生の外套のポケットに入ったまま忘れられていた時計が、急に動き出したかのようでもあります。

 チッチッチッ……。

 この小さな音が途切れないよう、ネジを巻きつづけるのが、これからの私の役割なのかな、と思っています。

松崎元子

<試し読み>...................................................................

挾み撃ち

 ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう。

 国電お茶の水駅前は混み合っていた。あのゆるい勾配のある狭いアスファルト地帯は、まことに落ち着かない。改札口から出てきた場合も、その逆の場合も、じっとそこに立ち止ることができない場所だ。実際、誰も立ち止らない。スタンドの新聞、週刊誌を受け取るのも歩きながら、ヘルメットをつけた学生諸君からビラを受け取るのもまた、歩きながらである。

 幾つか並んでいる公衆電話のあたり、それからバスとタクシー乗場。もちろん橋の上も混んでいる。それにしてもお茶の水とは、また何と優雅な駅名であろうか! お茶の水! ここは学生たちの交叉点だ。確か何年か前、この附近一帯を大学生たちが占拠しようとした。解放区というものを作ろうと、ヘルメットをかぶり、タオルで顔を覆い、手に手に棒を持寄って警視庁機動隊と衝突した。しかし彼らは間もなくその計画を諦めざるを得なかった。車道へ出て遊んではいけない。道路上での陣取りは違反である。ましてや手造りの火炎瓶ふう発火物を投げることなど許されるはずもない、というわけだった。つまり、まことに優雅な駅名を持つこのお茶の水界隈は、解放区とはならなかった。しかしそこが、依然として大学生たちの交叉点であることに変りはない。

 橋は国電の線路を跨いでいる。この橋は何という名の橋だろう? お茶の水橋? たぶんそうだろう。しかしわたしは、立っている橋のほぼ中央の位置からわざわざそれを確かめに歩き出したいというほどの人間ではなかった。ただ、ある日のこと、その橋の上に立っていたにもかかわらず、橋の名前を知らなかったことに気づいただけである。

 とつぜん、白鬚橋(しらひげばし)の名が口をついて出てきた。吾妻橋、駒形橋、それから……源森橋? もちろんいずれも『濹東綺譚』である。イサーキエフスキー橋。これはゴーゴリの『鼻』である。ある朝とつぜん、朝食のパンの中から出現した八等官コワリョーフの鼻を、床屋のヤーコヴレヴィチがぼろ布に包んでおそるおそる捨てに行く橋である。確かに橋にも名前は必要だろう。できるだけ警官に出会わないように横丁から裏道を選んで寺島町へ通う荷風が、名前も知らない〈ある橋〉を渡ったのでは、面白くない。床屋のヤーコヴレヴィチもまた、警官の目をおそれている。なにしろ彼がぼろ布に包んでこっそりポケットにかくしているのは、おそれおおくも八等官の鼻だったからだ。そしてそのような彼が、ようやくの思いでぼろ布に包んだ鼻を捨てることのできた橋は、やはりネヴァ河にかかったイサーキエフスキー橋でなくてはならないだろう。ペテルブルグの〈ある橋〉では面白くないはずである。

 橋ばかりではない。寺島町界隈に出没する男たちの習慣に従うためわざと帽子をかぶらず、庭掃除用のズボンに女物のチビた古下駄をはいた荷風が歩き抜ける横丁や路地にも、すべて名前がついている。どのように狭い無名の路地にも、名前があるのである。少なくとも彼は知っていたはずだ。もし本当に無名の路地であったとしても、彼だけはその名を知っているように、読む者には思われるのである。そのことは、ぼろ布に包んだ鼻をポケットに隠した床屋の場合も同様だった。なんと羨ましい小説だろうか! 実はわたしも、ああいうふうに橋や横丁や路地の名前を書いてみたいものだ。自分の小説の至るところに、あのような名前を散りばめてみたいと願わずにはいられないのである。

 しかし現実には、わたしは自分がその上に立っている橋の名前さえわからない有様だった。一つにはこれは、わたしが田舎者のせいだ。田舎者? 左様、ひとまずここではそうして置くことにしよう。実際わたしはこの橋に限らず、白鬚橋も吾妻橋も駒形橋も源森橋も、知らない。渡ったことがないのではなく、たぶん渡っていながら、知らないのである。もちろんこれはわたしのせいだ。わたしの個人的な理由によってそうなのである。しかし同時に東京そのものがわたしを混乱に陥れていることも確かだろう。早い話、川の無い橋が無数に架けられている。道路のこちら側から向う側へ渡るために架けられたあの無数の歩道橋に、ひとつひとつ名前をつけたらいったいどうなるのだろう? もちろんそれらの名前を全部、片っ端からおぼえ込む人間も出てくるはずである。意地ででも暗記してやるぞ、という人間も出てくるには違いない。しかしそのような橋の名前を荷風は小説に書き込むであろうか? 歩道橋を渡って寺島町界隈へ通う荷風の姿などは考えることができない。つまりわたしがいうまでもなく、荷風の橋は、もう書けないのである。少なくともわたしには、それを模倣する資格がない。川ばかりでなく、名前もつけられない無数の橋が、東京じゅうに氾濫したのである。

 しかしいまさら愚痴をこぼしてみてもはじまる話ではない。こんな名前も無いような橋など、誰が渡れるものか、というわけにもゆかない。自動車の波を手足でかき分けることができぬ以上、誰もが名前も無い橋を渡らずには生きてゆくことができないわけだ。もちろんこれはべつだんわたしの新発見ではない。常識である。それに、何もかも一緒くたにして論じるのは、やはり誤りというものだろう。川も名前もない橋が東京じゅうに氾濫したとはいえ、現にわたしが立っている橋には、何か名前がつけられているはずだからである。その橋の上でわたしは、たまたま橋の名前を忘れているに過ぎない。しかしわたしはその橋の上で、とつぜん早起き鳥を思い出した。そこで、この橋をいま早起き鳥橋と呼ぶことに決めても大して罪にはならないだろう。

 橋の上から大学バスが出る。実は一度だけわたしもそのバスに乗ったのだった。ちょうど二十年前のことだ。わたしはそのバスに乗って早起き鳥の試験を受けに出かけたのである。それ以来わたしは、二度とふたたびそのバスに乗っていない。乗る必要がなくなったからだ。

 次の和文を英訳せよ。《早起きは三文の得》

 その解答欄にわたしは書き込むことができなかった。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。まったく情ないくらい単純な話だ。しかし諸君、人生とはまさしくそのように単純で、ごまかしの利かないものなのである! もっともわたしが、「諸君」などと呼びかけてみたところで、誰かが「ハイ!」などと返事をするわけではない。もちろんこの橋の上にただ立っているだけの男の人生など、現在の諸君の人生とは何のかかわり合いも持たぬはずだ。いったいわたしは何者であるのか、一向に諸君にはわかっていないからである。ただ、もしも、いったいこのわたしが何者であるのか、ほんの一瞬間だけ通りすがりの諸君に興味を抱かせるものがあったとすれば、それはわたしの外套のせいだ。

 とはいっても、べつだん人眼を引くような奇抜な外套ではない。一口でいえば、まことに平凡な外套である。しかし、その平凡過ぎるところが、あるいは誰かの目を引くことになるのかも知れない。いまどきわが国の首都東京においては、このように平凡な外套を着用する習慣はなくなってしまったからである。いったいいつごろからそうなったのだろう? どうもわたしにははっきりしない。誰か服飾専門の研究家とか、デパートの売場主任とかにたずねてみればはっきりするかも知れないが、一般人の常識としては、ビルというビルが暖房完備となったこと。そのビルからビルへの往来はこれも暖房完備の自動車ですること。またその上に加えて、日本が戦争に敗けて以来、年々東京の冬は暖かくなってきて、例えば二・二六事件のような雪は最早や降らなくなってしまった。大略そういった見方がゆきとどいているようである。

 
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